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気がついたら、当欄を随分休んでいる。本当を云うと、大分以前からご指摘もいただいていたわけだが、(曰く“ブログ時代なんですよ”曰く“ユビキタスの最先端を進めているんだから、知事もぐーたらしないでしっかり心象報告しなきゃ”云々・・・・・・)本当に心身とも慌しかった。
元文芸書の編集者としては、どうしても身も心も落ち着かないと筆が取れない。活字を一字一字一個一個拾って、場合によっては作字(活字を作ること)して本造りをしていた最後の世代の気分が抜けない。
バタバタと働いて、体もだがこのご時勢では一日分全神経を使い切って、自炊(とても楽しい。一人でかける鍋など地産地消そのものだ)して、風呂、バタンキューと寝たら、もう朝になっている。
それに今年は土日もフル操業だ。コンベンション部隊の勝利!で全国大会、東北大会がすこぶる多いし、本人出席の基準となる5年、10年の大会(25周年とか50周年とか)が当たり年だからだ。
本日もこれより青森市内と下北だ。
しかし当稿を書き出したのは、“継続は力なり”とこつこつ作り続けてきた後援会報No.23が在庫ゼロになったと事務局から話があり、久々にウォーミングアップという所が真実だ。
新潮社の出版部時代“書けない、もう書かない”“んー”と呻吟する作家・先生方を相手に「何うなってんですか、締切はとっくに過ぎてるんですよ」とシバキアゲ(関西風に云えば)ていたことが、自分に返ってきた。あの時、もっと優しくしなくちゃいけなかったんだと、名は秘すが物故した先生数人を懐かしく、ありがたく、切なく思い出して、そっと手を合わせている。
さて昨今、小学校から英語とか逆に古文の暗唱とかとか様々にアイデアが出されている訳だが、どう説明して良いかわからないが、感性に訴える絶対的名文というものは、どの言語文学にもあると思う。
To be or not to be, that is the question.
月日は百代の過客にして行きかう年もまた旅人なり
我輩は猫である。名前はまだ無い
秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し
例えばこのような、心に響く名文がある。
ケイタイ絵文字もひとつの文化だろうけれど、なかなか上手くは使えない。今日のところはウォーミングアップとして「前略、○○様」と昔流行ったTVドラマのように、不精を詫びながら、編集者時代の先生何人かに秋の便りをしてみようと思っている。(そういうわけだから、『吾人』No.24ちょっと遅れます。ごめんください。)
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