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VOL.41 [2008.1.24]
“近松”を読む
 20年ぶりに“近松門左衛門集”を読んでいる。
 いや、正しくは恥ずかしいことに、読んでいると云うよりも眺めている。
 国文学で学位を取得し、元いた新潮社では日本の古典全集も編集していたにもかかわらず、“近松”の奥深さに唸らされている。
 人間の心の襞(ひだ)に何があるのかまでも想像しない限り、作品の機微が読み込めない。
 学ぶに遅いという事はないと云われるものの、かつて、いかにあっさりと文楽や歌舞伎の原作として、話の筋だけを見ていたのかと、自らの不明に考えさせられるところ大である。
 親や子の、男や女の、人の世の愛憎の深淵をこれでもかと覗かせながらの、突き放したごとき筆の切れに感嘆せざるを得ない。
 とてつもなく怖い戯作者だ。
 ただ、そんな近松の筆が、さわりだけでも感じられるようになったのは、50というそれなりの齢を重ねた今だからだろうか。
 また、こんな頼りない元国文学徒の自分であっても、
「どんな願いも叶え猿、庚申堂よと伏し拝み
ふりかえり見る勝鬘の、愛染さまに愛嬌を・・・」とか
「この世も名残り、夜も名残り・・・」とか
 唄のさびのようなセリフ回しの妙、道行きの文学の切なさが、ごろの良い言葉遣いと共にふと口に浮かんでくる。
 “ああ昔、少しは勉強したのだったのかな”と齋藤孝さんの『声に出して読みたい日本語』の云うことは本当だなと30年の時を経てしみじみ思う。
 極端に端折れば、“近松”とは遊里、道行き、死のパターンの作家とも云えるのだろうけれど、その作品の背景には常に、その時代を生きていた人たちの真実の声、時代の声があり、そのことによって多くの時代市民の圧倒的支持を受けたのではなかろうか。
 それにしても、江戸というその時代を登場人物ともども現代に蘇らせる近松の戯作者としての腕は驚嘆すべきだ。
 近松の作品を齋藤先生の云う通り、声に出して読み進む時、梅川も忠兵衛もお初も徳兵衛も小春も治兵衛も生き生きと蘇り、切なくも生命の息吹を感じさせる。
 沢山の出版物に囲まれる現在だが、いまある幾多の物語や読み物の何作品が、300年、1000年の時を経ても、登場人物ともども生きてゆけるのだろうか。
 生きること、食べること、死ぬことは、生物としての真実である。
 しかしここに、人間なればこそ愛憎という要因、さらに経済が加わることで、時代や世の中の方程式は幾次元にもなる。
 いや、それどころか方程式などでは解析不能、不可思議なものと化するわけで、だからこそ文学の、戯作者の出番となるわけだ。
 さて、近松門左衛門ならば、この得体の知れない平成の世をどう描き切るだろうか。
 ぜひ読んでみたい。
三村 申吾

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