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VOL.49 [2008.2.19]
続・淀川に降る雪
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これは前回の別編。
傘を三度払いながら淀川に降る雪を見つめていたら、無性に畑山博(はたやまひろし)さんを思い出した。
“はーさん”(こう呼んで欲しいといつも云ってた)の銀河鉄道の旅も、もう7年になるのかと、言葉にならない寂しさがこみ上げてきた。
※畑山博(1935〜2001)
作家。戦中戦後に過酷な生活を体験したことから、社会の底辺で生きる人間の情念に深くまで入り込み浄化を求める視線を会得した。(『日本文学辞典』)
1972年『いつか汽笛を鳴らして』で芥川賞。作品に『母を拭く夜』『石の母』
『つかのまの二十歳』『海に降る雪』『二人だけの島』等。
文学辞典は何かねっちりした解説をしているようだけれど、生きることにピュアな“はーさん”だった。自分が担当編集者になった頃には、もう体調も良くないこともあってだろうか、“はーさん”は踏み込んで云うなら『葉隠』ばりに“生きることは死ぬことと見つけたり”の思いをいつでも抱いているかのようだった。
淀川に降る雪を見ながら、さらに思いを馳せた。
“はーさん”の代表作のひとつ『海に降る雪』は題名の通り、きれいなしかし切ない恋愛小説だった。確かライバル講談社の本で、映画化もされた。うち(新潮)でもこんな作品を書いて欲しいと妬けるいい本だった。
「ではいつか三村さんと、川に降る雪の小説でもやろうか」と話していたのだけれど、自分が担当したのは結局、これぞ芥川賞作家の文芸作品と云える『泣かない女』一作となってしまった。
しかし百石町長就任の折には心から喜んで下さり、町づくりのためのふるさと塾長を二年も務めてくれた。
塾生たちと一緒に湘南の海が美しい葉山の先生のご自宅にあがり、すき焼きの大宴会のあと、夜になって星の数をかぞえて大騒ぎしたことなどがとても懐かしい。
実は後年の“はーさん”は宮沢賢治に心酔し、賢治とその作品に関わる著作や講演を多くこなしていたこともあり、銀河鉄道に乗った気分になって、星を数えることになったのだ。
“はーさん”はよく云っていた。
「ビッグバンって知っているかな。宇宙は光の海が大爆発して、膨張し続けてるんだな。でも極限まで行くと今度は収縮して元の光の海になって、また大爆発を繰り返してるんだな。だから、我々人間も何回もビッグバンの毎に出会っているんだな。だから銀河鉄道に乗って、“ちょっとお先します”ってことになっても、また幾度でも出会えるんだよ。そう思ったら愉快だね。わっはっはっは。」
2001年9月2日、国会議員になっていた自分に、新潮の担当者から“畑山さん、悪いみたい”と連絡が入った。
急いで葉山の下山口の坂道をご自宅に駆けつけた時にはすでに、銀河鉄道に乗って急に旅立ってしまっていた。お別れも出来なかった。
その一年後、覚悟の思いあって準備しておかれたのだろうか、あの“はーさん”独特のなつっこい文体で封書が届いた。
“銀河鉄道で広い宇宙をどこまでも旅しています。またいつかきっと会おうや”との内容だった。手に取ってただただ泣けた。
淀川に降る雪を見つめながら、未完の小説と畑山博さんを偲んだ。
(そういう思いもあって、ネギ焼きで一杯という事になったわけだ。) |
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三村 申吾
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