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VOL.135 [2012.12.18]
平和が一番
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  台北での仕事を終えて、ジャカルタに向かっている。
 今回70余店舗を有する高級スーパーチェーンでのりんご取引が、ドカンと拡大したり、懸案のチャーター便に方向が出たり、或いは台湾メディアに出まくって、青森の観光物産PRが出来たりと仕事が濃かった。
 お笑いになるが、先のスーパーがりんごアロハ姿の写真入りチラシ70余万 部を配って下さったとかで、あちこちで台湾でも選挙でるのかと冷やかされたが、PR効果抜群でうれしかった。
 夕べは航空会社との懇談会。早朝やっと起きて乗ったガルーダ機でひと寝入りする間に、機は雲一つなく、南国の太陽をキラキラ反射する海の上から島々上空へ入った。
 CAに、「もうインドネシアか」と訪ねると、「まだまだやっとフィリピンだ」との答えだった。 随分昔、関空からインドネシアを往復したことがある。フィリピン上空はしかし、ちょうど夜中の通過だろうから、まじまじと見るのは、本当に初めてとなる。
 あまり真剣に見ているものだから、CAが親切に、 「ここはバギオ」「今からマニラ」「あれはカリマンタンだ」などと、度々教えに来てくれた。 しかし本当を云うと、聞きとれないで「Ha、ハーン、サンキューサン キュー」と解ったふりをしたほうが多い。 向こうも気にして「どこかに誰か知り合いでも居るのか」 と問われて 「身内が2人戦争で亡くなったらしいが、どこかも分からない」と答えると、かわいそうにと言いたげに首を小さく振って、悼みの心をくれた。 何とも切なくも、ありがたかった。
 大叔父たちの墓碑には、昭和20年8月15日ルソン島方面にて没とあるのみで、 どこでどう亡くなったなど全く分からない。 フィリピンには幾千の島々があるのだろうか。
 一万メートルの上空から見渡す島々は、それぞれにコーラルブルーの海に抱かれ、島によっては真っ白い珊瑚の砂に包まれ、或いは片面を白くお化粧され、ひとつひとつがまるで宝石のようだった。
 このどこかで大叔父たちは土に、いやもしくは海に帰ったのだろうなとあまりの切なさに、手を合わせた。
 祖父は、「海軍に二回も十何年も連れていかれた。中国から太平洋はほとんど行った。ワハハ、俺が一番世界旅行したなぁ。 赤城が沈んで、トラックでも船が沈んで、最後のラバウルでは、相手にもされなくなって、二年も芋作って生き残った。平和が一番。バカげた、くだらない戦争で商売も無くして、体もこわした」 とよく言っていた。
 思い返すと、とても賢い人だったから、南方の海や島々の風景や風土や食べ物や出来事、もっと凄くは、どこかの島の砂浜で逃げようもなくなって、腹をく くって見た艦砲射撃の余りの美しさに見とれたとか、スルスルと超高速で迫る魚雷に、今度は駄目かと最後かと見上げた月と星空が綺麗で生きたくてたまらな かった………とか、よく子供の自分に話していた。
 ひどい思い出だが、聞かせて残したかったのだろうなと記録してあげなかったことを、今フィリピン上空で悔やんでいる。
  「平和が一番だ」 と、戦後は風呂屋の釜焚きとして生きた、無辜の民たるうちのじじいは申してお りました。

三村 申吾

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