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VOL.223 [2015.3.4]
鈴木さんの釧路の朝
“さあ議会だ!気合いをつけよう”とおはよう日本にチャンネルを合わせた。
 毎度鈴木さんの笑顔を見ようと云う訳だ。4月から夜9時に移ると云う事で、自分 としては、見られる日が減りそうで残念な所だ。
 その鈴木さんが、今朝の釧路の様子をリポートしていた。
 釧路と云えばの幣舞橋に、雪が舞っていた。
 その瞬間に、鈴木さんには申し訳ないが、もう大好きなキュートな声も耳に入らな くなり、大変大変世話になったこの街に住むOさんの、包み込むように暖かな「ま たぁ、来年か再来年の秋に、会いましょうねぇ」を思い出した。
それから二十余年、釧路の恩人を思い胸キュンの朝となった。
 もう今はそんな仕事は無いだろうが、四半世紀前の百石町長の頃には、秋に北海道 は網走をスタートに別海、中標津、知床半島、根室、落石、釧路町と市、厚岸、広尾 など鮭の定置網の飯場を回る激励の旅があった。
 出稼ぎと単純に括っては、いけない。我が町から三沢六ヶ所にかけては、相当に昔 から定置など網の仕掛けの非常に優れた技術が伝承されており、船頭さんをチーフと する漁労集団が形成されていた。
 その部隊が、北海道東の海岸に一面に張り付き、鮭を収穫している現場を自分は激 励し、別部隊は預金や各種税等の督励を行う。
 かつての勢いは失われつつあったけれど、まだ鮭の景気のいい頃で、これらの集団 は、とんでもない収入と税等の経済を我が町にもたらしていた。
 町長と云っても、彼らの子供みたいな年齢だから、めちゃくちゃ可愛がられた。
「スンゴ(申吾)ちゃん、やぐば(役場)ど組合につかれで(使われ)集金に、来た が。てぇへん(大変)だな。まんずマンマ(ご飯)け(食え)」
と朝昼夕、イクラのてんこ盛り、花咲蟹味噌汁に(危険を少し犯してわざわざロシア 領から掠めて来たと後で知った)もっきり(お酒)の大歓迎だった。

 話が大分ずれたが、釧路では八戸出身で北海道の将棋連盟の会長かつ同級生の義父 でもあるOさんのホテルに泊まって、話に花を咲かせるのがとっても嬉しかった。
「また」の間も無く、自分は国政県政と転じる中で、釧路への旅の機会を失ってし まった。
だからこそ、若き日の道東の旅のふれあいの日々とOさんが、一気に思い出されて、 鈴木さんは今度でいいからと、直ぐにこの原稿を書いている。

 子供の頃の「じゃあ、またね」はすぐ明日にでも会える「またね」だが、大人に なってからの「では、また」の「また」が、年を重ねるほどに再見(ツァイツェン・ 再会)が間遠くなり、会えていた今その時が、一期一会だの覚悟で「またね」を云わ ねばならないのだと気づくようになった。
お正月に同期会があり、たまたま帰省していて何十年来に会えた同級生や二度と会え なくなった友の消息に触れて、ますますその思いを強くした。

 姫野カオルコさんが小説のなかで
“若さとは、海や空やバカンスやときめきではない。失恋の涙でもない。若さとは、 「また会えるとしか思えないこと」である。若さとは、写真を見ても苦しくならない ことである。”
と主人公に語らせていたが、素直に自分も賛同する。

しかして、時間だ。議会だ。行かねばならない走り書きで、ごめんなさい。


三村 申吾

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