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VOL.257 [2016.9.30]
南十時星
香港へ営業に行くトランジットの仁川空港の余りに快適な冷房に、ついうたた寝をしていたら、20余年前に亡くなった、祖父与四郎の夢を見た。

 先日、先の大戦で犠牲となった、県出身三万三千余柱を悼む、県の慰霊祭があったからかな。或いはつい先日、CS放送で映画『月光の曲』をたまたま見たからかな。

映画『月光の曲』は特攻に向かう為に召集を受けたパイロット二人が、最後にピアノを弾きたいと近くの学校を訪れて演奏したそのピアノを、生き残ったひとりが戦後数十年を経て見出され、関係者それぞれ思いを背景に、女子高生たちの前で月光の曲を再び弾くと云う実話である。
とても、熱い平和への思いを感じる名作だった。

与四郎はしかし、クラシック音楽とは全く縁がないから、前者かなぁ。
それでも『ラバウル小唄』は、戦友たちからの年賀状とか、土地の名物が届くとたまには、なまりながら唄っていた。

しかし、たとえ唄っていたにしても、二度も召集を受け、人生の一番いい時期に都合十三年に渡り、妻と三人の娘たち家族から引き離され、大切な商売を失う事になった戦争を心から憎んでいた。

帝国海軍の下士官だった与四郎は、どの将軍提督が、驚く程無能だったかをはっきり口にし、一方陸軍だが今村均大将の凄さは、絶賛していた。
 今村大将を畏れる余り、オーストラリア軍たちは戦いを避け続けた、と云うのが当時の南方の下士官たちの論評だったようだ。

与四郎のヤケクソな自慢のひとつは、全く不本意ながらの海外見聞話だった。
俺が、そこいらの誰よりも、一番海外旅行に行かされたと自嘲気味に豪語していた。
全く自分の意志では無いし、魚雷を食らって船は二度も沈んで、サメ除けにふんどしを長く海中に漂わせ、勿論自分も漂ったりした十三年の海軍暮らしで、空母赤城での太平洋の船旅を始め、北はアリューシャン、西は上海から中国大陸、南はトラック諸島の島々、最後はラバウルでの芋畑作りまでの、波乱万丈、さっきの魚雷での撃沈に艦砲砲射に爆撃にと命がけの海外ツアーを孫の自分に、よく語っていた。

失った夢や家族との時間を、本当に悔しがり残念がり、戦争する馬鹿っこは許さないと話し続けていた。

自分がまだ町長で、東京出張帰りの古い時の羽田空港で、急逝の知らせを受けたから、亡くなって二十年以上になる。

♪さらばラバウルよ〜と唄うだけでなく、よくこの小唄の中にも歌われる「南十字星」の清々しさも、これについてはとっても懐かしむように、「また見たい」と話していた。

今回の仕事は、香港で二泊し、観光と物販営業後、マレーシアで同様に営業だ。
マレーシアほども南方に行けば、南十字星はきっと見られると思う。
夜の懇談会もあるけれど、そのあとには、与四郎に代わって、南十字星に平和を懇願したい。


三村 申吾

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